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 北宋の滅亡後、江南に逃れた徽宗の子康王(高宗)は、1127年帝位につき 、臨安を首都とした。これ以後を南宋という。このとき多数の華北の人々が江南に移ったので、福建や広東の開発が大いに進んだ。

 靖康の変の際、、金に捕らえられて満州に連行されていた秦檜は、金の黙認により帰国し、南宋の宰相に起用された。高宗は秦檜の主張する和平論を支持し、主戦論を唱える韓世忠・張浚・岳飛らを抑えて、1142年金と紹興の和議を結んだ。その内容は、宋は金に対して臣と称すること、東の淮水から西の大散関にいたる線をもって両国の国境とすること、宋は金に歳幣として金と絹を贈ること、金は徽宗の梓宮と高宗の生母韋太后を送還することなどであった。南宋にとってこの和議は屈辱的なものであり、秦檜は国民の非難をあびたが

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、この後約1世紀の間は両国に比較的平和な関係が続き、生産力が高まり、文化が発展した。

 金は都を会寧府から燕京、さらに汴(べん)京へと遷し、女真人の中国化が進んだ。5代世宗(1161~89)は国粋の保護奨励につとめたが、漢化は進む一方であった。南宋初期、金の統治する華北では王重陽が全真教を開き、儒教と仏教(とくに禅宗)を取り入れて道教の改革をはかった。


全真教…道教の一派

秦檜(しんかい)
韓世忠(かんせいちゅう)
張浚(ちょうしゅん)
岳飛(がくひ)
淮水(わいすい)
大散関(だいさんかん)
梓宮(しきゅう)
会寧府(かいねいふ)
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by marone_marona | 2008-06-21 09:42 | 9

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